江戸時代の調味料

明神塾記事はこちら)で教えていただいた江戸時代の調味料がとても興味深かったので、ちょっと調べてみたものも加えてまとめてみました。(あっているかわかりませんが)
どの調味料も以前からあったものが、江戸時代に、どんどん庶民に取り入れられ、庶民の好みの味に変わっていったようです。
上方などから船に乗ってやってきていた下りものが、江戸近辺で作られるようになり、発達した水路を使って届くようになり、ますます需要が広がっていったのでしょう。

 

【醤油】
しょうゆ情報センターより

しょうゆのルーツは、古代中国に伝わる「醤(ジャン)」であるといわれています。
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大宝律令によると、宮内庁の大膳職に属する「醤院(ひしおつかさ)」で大豆を原料とする「醤」がつくられていたとされています。この「醤」は今でいうしょうゆと味噌の中間のようなもので、宮中宴会などで食卓にのぼっていたようです。その後、信州の禅僧・覚心(かくしん)が1254年(鎌倉時代)に中国から持ち帰った径山寺(きんざんじ)味噌の製法から、味噌づくりが開始。紀州・湯浅の村人にその製法を教えているうちに、この醤からしみだす汁がとてもおいしいことに気づき、今でいう「たまりしょうゆ」になったといわれています。
紀州・湯浅で生まれたしょうゆの製法はその後も発展。1580年ごろ(天正年間)には、日本で最初のしょうゆ屋さんと思われる玉井醤が、みそ・しょうゆ業を始めたといわれ、1588年(天正16年)には、紀州から100石(約18000L)のたまりしょうゆが大阪に送られた記録が残っています。

※大宝律令(たいほうりつりょう)は、701年(大宝1年)に制定された日本の律令

そして江戸の初期には、関西から醤油が運ばれてきたのだそうですが、関西の下り醤油である薄口の醤油に対して、関東の人たちが好む濃い味の醤油が関東で作られるようになりました。これが地廻り醤油と言われ、関東人には上方の醤油より好まれ、9割以上が関東産の濃口醤油になっていったのだそうです。

 

 

【酢】
酢の歴史より

400年ごろ
応神天皇のころに、和泉の国(現在の大阪府南部―堺市あたり)に、酒造りの技術と前後して中国から伝わったとされています。
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江戸時代 1603~1867年
お酢が味噌、醤油とともに庶民まで普及し、様々な合わせ酢や、それまでの「なれずし」などの「発酵すし」とは異なった、飯にお酢を混ぜて作る「押しずし」などの「早ずし」が広まりました。このころは、米酢が一般的でしたが、1800年代になって、「握りずし」には酒粕から造った「粕酢(かすず)」が使われるようになりました。

 

にぎり寿司の大流行による酢の需要が増えたのだそうです。
そういえば、浮世絵などを見ると、握り寿司って、大きかったんですよね。
そうそう、お稲荷さんも、今の油揚げが1本そのまま使われているような大きさでしたよね。

 

 

【塩】
簡単日本の塩歴史より

国の始めについて書かれている「古事記」に出てくるシオツチノオキナ(塩土老翁)が、製塩の創始者と言われています。

 

さすがに古い塩の歴史ですが、江戸時代は、千葉県市川市行徳で塩が作られ、小名木川の塩の道を通って江戸城に運ばれたのだそうです。

塩づくりの歴史より

幕府は、江戸に近い所から塩を供給できるため、保護政策を施し、塩づくりを奨励していた。

以前、市川市塩焼というところに住んでいて、変わった名前だなぁ、と思っていたのですが、さすがに行徳あたりには、塩焼、塩浜、など塩に関する名前が残っています。

農作物の肥料や衣料品としても使われていたのだそうですよ。

 

 

【砂糖】
砂糖の歴史 日本より

8世紀
唐僧鑑真が来日した際に黒砂糖500斤をもたらしたという説がある。(薬用として活用)
17世紀
〔1610年〕薩摩国大島郡(奄美大島)の直川智が黒砂糖の製造に成功。
18世紀
元禄期、薩摩藩が本格的に製糖を開始。
徳川吉宗・新井白石らが製糖奨励策をとり、阿波、土佐、駿河、遠江、和泉などの地方でも製糖が始まる。

 

最初は高価で薬用として使われていた砂糖は、藩による製糖業の奨励、讃岐の白砂糖の誕生、武蔵国大師河原村名主の池上幸豊による砂糖黍栽培(八代将軍吉宗の頃、川崎)などがあり、一般庶民にも使われるようになっていったようです。
きれいな和菓子が食べられるようになったのもこの頃から
王子稲荷近くの玉子焼きもこの頃からでしょうかね(?)

 

 

【味噌】
味噌の歴史と語源より

日本人には馴染みの深い味噌汁ですが、実は中国から伝来したと考えられており、その歴史は飛鳥時代までさかのぼります。

味噌の起源は、古代中国の大豆塩蔵食品の「醤(しょう・ひしお)」と言われています。醤を造っている熟成途中のものがとてもおいしかったので、これが独立し味噌という食品に発展したのです。このことから、未だ醤にならざるもの、すなわち「未醤(みしょう)」と名付けられ、みしょう→みしょ→みそと変化したと推定されています。

 

みその歴史より

元禄期の江戸は人口が50万人達し、江戸の生産だけでは味噌の需要を到底まかない切れず、三河の三州味噌や仙台味噌が江戸に運ばれ、味噌屋は大繁盛する。高級料亭の開業も相次ぎ、優れた料理書もたくさん発刊され、味噌料理はますます洗練されていった。「本朝食鑑」(1695年・元禄)、「料理塩梅集」(1668年・寛文)などの料理の本も発刊され、また流通経路も良くなったことも相まって諸国の食べ物が広まっていった。とともに味噌も家庭での手造りだけでなく、お店で買うことも多くなっていく。 一方で、味噌汁の味は食べ慣れた味じゃないと落ち着かないということから、手前味噌が定着し、こうした味噌蔵の数はさらに増え、江戸時代の末期にはおよそ6,000にもなった。

 

仙台味噌は辛口味噌で品川の大井にあった仙台藩の下屋敷で作られ、その味が江戸の人々の好まれたのだそうです。

 

 

【鰹節と昆布】

太平洋側ではカツオがよくとれたので、鰹節文化
昆布は三陸以北にしか自生せず、西回り航路の船により、東北産の昆布が大阪に運ばれ、日本海側では、昆布の文化
なのだそうですよ。